tokorone

2024 05 09_内なる他者

内なる他者というインターネット(note.com)で見つけた概念について最近考えている。

[書けないということ|ジョナサン](https://note.com/jon_asan/n/na5028f6330d9)

そもそもの時系列

tokoroneの更新が4ヶ月ほど途切れた頃に上記の記事を見かけ、自分がなぜ日記やエントリ、joplinのノートを書けていないのかに対する理由を見つけました。
そして如何に内なる他者を作りエントリを書くためにどういったことをすれば良いのかを考えました。そして一つ考えが浮かびました。

私は以前のエントリにてこのように現状を分析しました。

自分がtokoroneでエントリを書き続けられた期間は”新しく始めたサイトに来るかもしれない閲覧者”という期待によってモチベーションが維持されており、段々とWebアナリティクスを確認していくうちに”ほぼ人は来ていない”実情がわかっていき、期待で成り立っていたモチベは溶け崩れた。というわけですね!

私は”他者”の役割を想像上の閲覧者という期待に任せていたが、それが非実在である事がわかるとなにも”他者”を担うものはなくなってしまった。この空席をどういったもので埋めるのかといえば自分自身でしょう。ではどうすれば自分自身に内なる他者を作り上げることができるでしょうか。

内なる他者の作り方

読み返したくなるような文章を第一にして書いていくというのは一つ方針としてありだなと思った。

「内なる他者を作るためには、自分が定期的に振り返ってみたくなるようなエントリを書くことなのでは。」

(joplinローカルノートより引用)

色々なタイミングで後々読みたくなるような文章を書くこと、書き終えたあとに何かしらのタイミングで再読することを前提に文章を書くことというのは、時間軸として未来方向に”内なる他者”を設けるという方法です。

自分には前々から”書いた日記(メモ)を見返さない”という問題点を認識していましたが、まさしくそれは未来に内なる他者を置けておらず、であれば、見返したくなる文章を書けばいいじゃない。という発想です。

鶏が先か、卵が先か

思えば、未来に読み返すための文章を作成するという行為は、とても”現実逃避の逆”というおもむきがあります。
単純に未来でする行動を想定して行動するということが未来志向ですし、読み返したくなる内容を書こうとしているところもかなりすごいです。
内なる他者というのは”現実逃避の逆”をすることで発生するものとも言えるかもしれません。

そもそも現実逃避してるから日記を書けないし書いたとしても見返さない、見返したいような内容が書けないのに、思いついた方法が本質的には未来志向的な行動であるというところが鶏が先か、卵が先かという気もします。

まあ書けばいいじゃん

鶏先卵先の話はあんまり深く考えずに書いていくことを考えたほうが良さそう。短くてもいい気概を持って。
p-hone.info, write.as/metsa こういった人たちへの憧れも胸に…。(唐突な好きな非日記系ブログ開示)

ただし、もうすでにこのエントリを書き終えるのに8日掛かっているという課題が浮き彫りに鳴っているわけですが…。まあ、ある程度頑張っていきたい所存です。